山下公園を走っていた貨物列車、何を運んでいた?>


山下公園を貨物列車が走る・・・。そう聞くと奇異に思う年代の人も増えている。かつて山下公園内に残されていた、貨物列車用の高架線路は2000(平成12)年に撤去が完了しており、公園内には面影が残っていない。
 

1980(昭和55)年、横浜開港120周年を記念して山下公園を走るC581
作者 Shellparakeet [
CC0], ウィキメディア・コモンズより
 
そんな貨物列車は何を運んでいたのか。横浜港や貨物線に関する資料を元に、まずは桜木町駅前にあった貨物専用駅「東横浜駅」の跡から、山下公園までの足跡を辿っていこう。



横浜の貨物拠点
 

桜木町駅前にはかつて「東横浜駅」があった(過去記事より)
 
かつて初代横浜駅だった桜木町駅。その「元・横浜駅」から1913(大正2)年末に貨物取扱部分を独立させ、東横浜駅が誕生した。ここから現在のみなとみらい方向に線路が伸び、新港埠頭や横浜赤レンガ倉庫の「横浜港(よこはまみなと)駅」まで貨物が運ばれていた。
 
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横浜駅の跡地は、桜木町駅前のバスロータリーのあたり
 
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東神奈川駅跡から、赤レンガ倉庫までをまっすぐにつなぐ「汽車道」がその名残だ
 
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線路跡は赤レンガ倉庫の入り口近くまで続いている
 
汽車道はこの線路が廃止された1986(昭和61)年以降、遊歩道として整備された。赤レンガ倉庫は新港埠頭整備の一環で作られた、当時の最新鋭の倉庫。戦後の接収などを経て、今も横浜港のランドマークとして存在感を発揮している。

ついついこのまま赤レンガ倉庫に突撃したくなるが、山下公園内へと続く線路の足跡はここから象の鼻パーク方面に進んでいく。象の鼻パークの南側に「開港の道」として整備されている遊歩道そのものが、かつての貨物線跡なのだ。
 
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高架線をそのまま遊歩道にした「山下臨港線プロムナード」
 
「山下臨港線」は、赤レンガ倉庫の貨物駅「横浜港駅」から、山下公園の先にある「山下埠頭駅」までをつないでいた線路で、正式には東海道本線の貨物支線にあたる。ほかにも「公共臨港線」「山下埠頭線」「臨港貨物線」などの通称でも呼ばれていたそうだ。

プロムナードを歩いていくと、大さん橋付近にかけて見晴らしの良い歩道が続いている。
 
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写真中央、高架がそのまま遊歩道になっているのが分かる
 
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山下ふ頭を望む見晴らしの良いプロムナードだ
 
この山下臨港線プロムナードは、まさに山下公園に入るところで唐突に終わり、下り階段に。2000年の高架撤去まではこの先にも線路跡が続いていたが、公園の景観復活のために取り除かれることになった。地上部分に「開港の道」は続いているが、公園内に高架は残っていない。
 
山下公園を山下ふ頭方面に歩いていくと、公園東側に整備された「石の階段」や「世界の広場」に行き当たる。

山下公園は1961(昭和36)年に全体が完成。一方、この広場は1989(平成元年)年の横浜博覧会のために、公園の駐車場屋上部分に整備されたものだ。
 
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「石の階段」を上った先に「世界の広場」がある
 
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広場の一番奥にはモニュメントが鎮座
 
構造上は、この先にあった「山下埠頭駅」まで線路が続いていたはず。山下公園内の高架は景観保持のために設けられたもののため、公園の終わりとともに線路は地上に降りているはずだ。
公園より先にも線路の跡が残っているかもしれない。公園から出て、山下ふ頭方向へ続く東側に回り込んでみる。
 
 
山下公園詰所門の正面、埠頭方面に向かう道路上に確かに線路の姿が!
 
 
この先の山下ふ頭は、現在再整備の真っ最中。立ち入ることはできない。

貨物列車が運んでいたものは?

当時、山下公園内を走っていた貨物列車が運んでいたのは、いったい何だったのだろう?
 

現在のふ頭の様子。写真右下が公園の「世界の広場」だ
 
山下ふ頭ができる前、戦前の横浜港では、生糸の輸出によって外貨を獲得し、日本の発展を支えてきた。
 

絹によって発展してきた横浜港、そして日本(写真は
シルクセンター
 
生糸の輸出産業は戦前まで続いたが、敗戦後は港湾施設の9割が接収された。占領下では全国の連合軍基地関連の物資を運んでいたようだ。

その後、多くの港湾施設は返還されたが、瑞穂ふ頭は接収が続き、使用できない状態が続いた。山下ふ頭が整備されたのは、その代替の埠頭を整備する必要があったためだ。
 

今も関係者しか立ち入りができない瑞穂ふ頭
 
横浜港の輸出品目は時代を経るにしたがって変わっていくが、戦後から1960(昭和35)年に掛けては日用雑貨や食料工業品など「軽工業品」がトップ。その後、高度経済成長期を迎えた1961(昭和36)年以降は重化学工業品が急激に伸び、輸出の中心となっていった。

横浜税関の資料によれば、特に昭和60年代に掛けては電気機器の輸出額が全国一位を占めるなど、主要輸出品だったようだ。
 

臨海部の工業地帯で輸出品が生産されてきた
 
一方で、輸入に関しては戦後は特に食料品などが多く荷揚げされていたが、その後の産業発展に伴って原材料の輸入が増加。それを加工して、製品として輸出するというサイクルが確立していく。

山下ふ頭本体は1958(昭和33)年に完成。一方、山下公園を走る貨物線に関しては「景観が損なわれる」として反対運動が起こり、着工が遅れた。できる限り山下通りに近い位置に、15メートルの高さの高架を作ることで折り合いが付き、線路が敷かれることになったが、運行が始まったのは1965(昭和40)年のこと。
 
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山下通りから公園方向、かつては高架が空を覆っていた
 
この時期、山下公園を走る列車は日本の復興と発展を支えるため、埠頭から輸出する工業製品を詰め込み、線路を駆け抜けていた。

山下ふ頭の荷物取扱量は、1966(昭和41)年にピークを迎え、年間1574隻・273.3万トンの貨物が行き来していた。だが1970年代以降、コンテナ船が入港できる本牧ふ頭や大黒ふ頭が完成すると輸出入の役割がそちらに移り、1986(昭和61)年には貨物取扱量が585隻・131.8万トンにまで減少。同年、山下埠頭駅もその役割を終えて廃止されることになった。

その活躍期間は20年あまりと、決して長くない。
だが、山下公園を走っていた貨物列車は、こんにちにいたる日本の発展を支えてきた立役者であることは間違いない。



取材を終えて

もしもいま、山下公園内を列車が走るという計画が打ち出されたら、やはり「景観が損なわれる」と反対運動が起きそう。それでも当時、高架という形で線路が引かれたのは、それがどうしても必要だったからに他ならない。

かつて高架があった時は、公園入口の薄暗い雰囲気と、公園内の視界が開けた景色とのコントラストが印象的だったという。
まだ名残が残されている鉄道跡も、いずれは消えていくものかもしれない。だが、その果たしてきた役割は、かつての景色とともに記憶にとどめておきたい。

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